指摘される環境の大切さ

 指摘されることは、決して気持ちの良い体験ではありません。しかし、指摘をされると言うのは非常に大切です。なぜなら、自分が足りていない現実を知ることができるからです。時には鬱陶しいなと感じることがありますが、その指摘を素直に受け止め、考え、改めることができる人と、そうでない人では、成長に大きな差が出てくると考えます。

指摘してもらえる大切さ

私は自分の能力不足と経験不足から、仕事の質について、よく指摘を頂きます。よく当ブログでも書いている内容から、お読み頂いている方は、どういった内容で指摘されているのかお分かりかと思います。

 しかし、あまり当ブログでは書いておりませんが、私は、日本語について指摘を受けることが多々あります。それは、理解力や伝達力など、仕事をする上で足りていないと。
これを、指摘される度に、結構ダメージが大きいです。

 理由は、24年間、日本と言う国で育ち、日本語を人前で堂々と使ってきたにも関わらず、その能力が乏しいと指摘されたからです。つまり、自分が間違っていないと長い間思い込んで使ってきた言葉が、間違っていることに気付かされたからです。

 しかし、ここで自分の日本語力の乏しさに気付くことができたのは、非常に大切な経験でした。大人になって、敬語や、ビジネス用語に関して、指摘されることは多いかと思いますが、それ以外の日本語に関して指摘してもらえる人は、多くはないかと思います。
あるカフェのトイレでこのような注意書きを見かけました。

「降ろして頂けるようお願いいたします。」と言う日本語は、ここではおそらく間違っていて、正しくは、「降ろして頂くようにお願いいたします。」かと思います。日本語を指摘されている手前、自信を持って言えませんが、違和感があったのでご紹介します。私が間違っていたらご指摘していただければ、助かります。

 仮に上記が間違っていると仮定して話を進めていきます。おそらくこれを書いた人は、自分が日本語を間違うわけがないと思って、見直しもせず、張り出したかと推測します。
自分の母国語である日本語を間違うわけがないと、思い込んでいる可能性が高いです。

 私もそうでした。この張り紙が仮に何日も貼ってあるのであれば、それを書いた人は、日本語に関して、指摘をされずにいるということになります。もし、このまま指摘されずに人生を過ごして行くと、どこかで恥を掻くことになりかねません。

 人は、自分が自信があることや、正しいと思い込んでいると、見直しを怠ります。ここで、誰かに指摘してもらい、自分が自信を持っていたことや正しいと思い込んでいたことが間違っていると気付ける環境にいるかどうかは、人生において非常に重要なことだと思います。私は、現在、ありがたいことにそう言う環境に身を置けております。指摘をされることは、時には精神的にきついことがありますが、真摯に受け止め、改善するために努力を続けていきます。

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